国場について

瓦製造の発祥地、国場カーラヤーモーの由来記

今でこそ、沖縄の瓦は「沖縄赤瓦」と呼ばれ、赤色系と認知されているが、それは18世紀に入ってからのことで、かつて琉球地方の瓦は、灰色のものが主流であった。
まさに、その赤瓦以前の灰色の瓦を沖縄で初めて作った発祥地が【国場】であったのだ‼︎

その歴史をたどってみると、当時瓦は王権との強い結びつきがあり、王府主導による瓦の統制が行われさらには瓦の生産と使用に介入し、瓦のあり方を左右していたと考えられる。そこで、王府は、中国から瓦職人、唐大主(トゥスー)琉球名渡嘉敷三良(トカシキサンラー)を呼び寄せ、今の真玉橋の北側の山の中腹に瓦製造の窯を作り、灰色の中国瓦を作り王府で使用した。
その後いちろく、さんくわん は朝鮮から来流マッカイ(お碗)を今の県庁の敷地内で製作している。
瓦屋造りは士族、地頭等の身分の高い人しか作れなかった。今の首里城は1712年に再築された建物を再現していることから以前から沖縄赤瓦が製造されていたことになる。瓦が本格的に焼造されるのは尚永王代(1573~88)に瓦奉行所が設置されている。
壺屋で発見された赤瓦は1783年頃の作成であることから今の赤瓦の原型であるとあると考えられている。
その後、唐大主(トゥスー)は国場の一番古くて格式高い城間門中(グスクマムンチュウ)の養子となっている。

城間門中の祖先を訪ねて、話を伺ったっら今の玉城村の玉城ミントゥー(七男)が裸時代(ハダカユー)から5代ウガンに住んだ後、今の住所に移り住んだようである。
写真の御香留の順が右側から双留御(ヌルーウ)、唐大主(トゥスー)、城間親方(グスクマエーカタ)、真和志按司(マワシアンジ)、国場大神加那(ククバウーカミガナシー)、国場大神、国場根となっている。
写真の真ん中の御香留の城間親方は第一尚氏の息子で城間門中に養子となったそうだ。

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さらに興味深い話もあり、唐大主(トゥスー)は滞在を勧められた時、条件として豊見城仲地の結婚中の女性を妻にしたいと申し出たそうで、その女性の嘆きの琉歌が残っている。
瓦屋頂登てぃ   真南向かてぃ見りば
島浦どぅ見ゆる    里やみらん
(瓦の丘に登って南を向かってみると村の反対側だけが見えて貴方は見えない)

年配者の方々から、この話はよく伺っていたが今回色々調べてみて私達が生まれ育った「国場」の歴史に残る偉業は子孫代々伝授して誇りにしていかなけれいけないと思い、瓦製造の発祥地として行政に働きかけ「記念碑設立」をお願いしていきたいと思います。

なお、当自治会では、祖先崇拝の行事として毎年1月に御願解き(ウガンブトゥチ)の拝みの時に瓦屋毛(カーラヤーモー)を欠かすことなく礼拝している。

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県営鉄道(軽便鉄道)のカナメ

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軽便鉄道 最後の時刻表か?

昭和18年(1943年) 12月

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生活のそばにあった歌

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国場 貴重な「死への歌」

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道具

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